「みちくさ」通巻150号に感謝して

また、新しい年を迎えることができた。昨年春から熊本大震災や水害、噴火など天災に見舞われ、今でも苦しい思いをされておられる方々が多く心痛むが、時は流れ、いつしかすべてを包み込み、新たな歴史のページを捲(めく)っていくことだろう。 人生はたいがいにして波乱万丈。それを飄々と生き抜いていくことが、人生の豊かさでもあるのだろうが、先人たちは強かったと思う。どんなに大きく恐ろしい天災に襲われても、再び気をとりなおし、むしろ自然と真っ直ぐ向き合いながら、一鍬一鍬、鍬を入れてきた。自然や超自然現象に激しい畏怖の念を覚えながらも、深い感謝の念を持ち続けることで、代々その土地と共に生きて来たのだろう。

私も「みちくさ」を創刊した頃は、ロサンゼルスでの医療事故の後遺症で明日の命もわからないほど弱ってしまっていた。九州とはまったく縁もゆかりもなかったアイターン者の私を元気にして下さったのが、九州の奥深い自然や時の流れに寄り添って生きる人々や、その暮らし。いつしか心も体も安らいでいった。 あれから16年と半年が過ぎようとしている。人と人、地域をつなぐ交流誌として、細々と創刊した「みちくさ」も現在 22名のスタッフと共に発行する誌面となった。

「旧みちくさ」として通巻19号を発行した2年間、その後37号を発行した「徒然草」(3年間)の時代を含めると、今月号で通巻150号という大きな節目を迎えることに気が付いた。これも読者の皆様とご協賛いただいてきた広告主や誌面配布を手伝って下さる八千箇所以上の店や施設の方々のおかげである。心から御礼を申し上げる。

戦争の悲しい痕を語り継ぐ

節目に当たる本号では、通巻150号を感謝し、先の戦争の悲しい痕を語り継ぐ戦跡紹介特集を誌面全体に散りばめてみた。戦争は前述したような「天災」ではない。「戦争は人災」である。避けることもできるのに起こるからこそ悲惨であり、振り返るのが苦しく、語るのも辛い。平成27年に戦後70年が過ぎ、戦争を体験されたときに成人であった方々が、90歳を越える年齢になられており、彼らが辛く重い口を開いて下さり始めた。

五ヶ瀬町桑之内、夕日の里で農家民泊を経営されている「ますがた」の佐伯光男さんもそのお一人である。敗戦後、北方領土で捕虜となりシベリアに抑留された日々の話を手記にし、語り継ぐ佐伯さんの人生。そして、私たち戦争を実体験では知らないものたちは、佐伯光男さんを通して8月15日に戦争が終了したわけではなかったということを、敗戦後の北方領土での苦しい出来事、シベリア抑留中の悲惨さなど、真実とその辛さを知るのである。

佐伯光男さん

光男さんが千島の占守(しゅむしゅ)島に派遣され、本土最北端の警備についたのは昭和19年5月。当時20歳の光男さんは翌年6月には軍曹に昇進し、連隊副官と共に戦車の操縦を担当した。8月18日、ポツダム宣言を受諾し終戦状態であった占守島にソ連軍が奇襲攻撃を仕掛け上陸、侵攻を開始した。当時、武装解除中であった光男さんが所属していた守備隊は住民たちを守るため戦車隊を主力に激戦を繰り返し、結果、池田大佐以下95名の戦死者が出た。光男さんの戦車は整備が遅れ、戦闘に参加できず、捕虜となる。 12月にはナホトカのアルチョーム収容所にて炭鉱の使役に従事し、黒パン少々と薄いスープといった乏しい食糧と酷寒、そして言葉に出来ないほどの重労働。強い精神力で乗り切った光男さんであったが、21年夏、急性肺炎で何日も意識が戻らず生死をさまよう体験をされたが、九死に一生を得、抑留から2年後の8月6日、永禄丸にて舞鶴から復員された。

現在、91歳の光男さんは、農協理事を務め上げ、宮崎県で一番初めに農村民宿を開始した「夕日の里づくり推進会議」のメンバーとして、現在も積極的に地域おこしに参加されている。特に農家民泊「ますがた」を開業する「兄から無理をいって貰った大切な嫁のちえ子さん」のために(ご本人の談)自身の手で家を改築された。私も夕日の里ファンとして「ますがた」に通算10回近く宿泊している。今年は「みちくさ」で佐伯光男さんの手記などを紹介するシリーズ「語り継ぐ戦後」を掲載して参りたい。

五ヶ瀬町桑野内地域

さて最後になったが、先週、弊社に朗報が舞い込んだ。弊社の「DMO活動とみちくさ倶楽部会員制度事業」が、今年35回目になる「宮崎銀行ふるさと振興助成事業」の「地方創生部門」助成対象に選ばれたのである。この助成事業には歴史があり、推薦されていた293件もの中から地方振興に貢献する企業として認定していただけたこと、心から感謝している。「みちくさ」150号の節目に自らも律し、より人の心に届く誌面づくりに精進して参りたいと、心から思った。

「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長