「大隅、飾り気のない楽園」岡田哲也詩人「岡田哲也」氏

ひと昔前、山川から根占(ねじめ)へ、フェリーに乗った時のことだ。勾玉(まがたま)の形をした山川湾を出ると、根占の山なみの眉間とおぼしきあたりに、瘤(こぶ)のような岩山が見えた。あの山は、と私は隣の老人に尋ねた。すると岩のようにぼそりと、彼が答えた。タッガンじゃー。

私はその時はじめて、立神は海の中だけでなく、丘にもあるのだと知った。錦江湾の座蒲団の上には、高隈連峰や桜島がずでんと座り、振りかえれば開聞岳や薩摩半島の山々の稜線が、撫で肩で空と接していた。私は、俺が国造りの神様なら、この景色を見れば、ウンここはいいとすぐに降臨するだろうな、と思った。

錦江湾をはさんで、薩摩半島は手弱女(たおやめ)ぶりであり、大隅半島は益荒男(ますらお)ぶりである。佐多から内之浦に至る海岸線は、黒潮の刃で削りとられたような断崖が続く。大地の罠のようなあちこちの滝。容赦のない自然や陽光。まことに益荒男そのものだ。

大根占の城元でひと息ついた時、私の口を衝いて来た言葉があった。
「風が空をなでると雲になり人が大地をなでると暮らしになる」

大隅には手つかずの自然や資源があるというより、人々は田畑を耕し、海に出、山に入って生計(たつき)を立てることに、もっぱら手を使い、心血を注いできたのだと思った。

だから観光地としての大隅は荒削りだ。飾り気のない楽園といっていい。しかし、それじゃあ物足りないとか、地元だって潤わないという意見もあるだろう。

ただ私は、空をなでる風よりも悠久に、土をなでる人の手よりも丹精に、この荒削りの原石に手を加えてもらいたいと思う。魅力とは、いかに見せるかだ。そしていかに見せるかとは、時として、いかに隠すかなんだから―。

城元展望所から見える風景

編集長より

「風が空をなでると雲になり人が大地をなでると暮らしになる」 大自然と暮らす人々の逞しさを感じずにはいられない大根占の詩。この詩は城元展望台の案内板に唄われていて、風と土のハーモニーを的確につかんで、謳う岡田哲也さんの感性には、いつもながら心動かされるものがある。

大隅という荒削りの大地にむかい、太古より懸命に生を繰り返してきた人間のいとなみが愛おしく感じられる。この魅力こそ、この地のもつ一番の財なのだと、いつ来ても思うのは、私だけではなかったのだという感動は嬉しい。大隅だけではない。九州脊梁山地や南九州を旅するときにも感ずる、日本人の「けなげで力強い生き方」「自然への畏怖と感謝の心」。

人が土に向かい、時が静かに暮らしをつむぐ。風は時空をこえ、森羅万象、多くを見てきたのだろうな。大隅の大自然を駆け抜ける風に耳をすまし、先人たちの暮らしを感じながら、心静かなる旅、今日もしたいものである。

「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長