創刊18年目を迎えて

「思えばぁ遠~くに来たぁもんだ~♪」海援隊のフォークソングが時々、心の中を流れていく。大阪や横浜、イタリアで幼少期を過ごした私が、海外での医療事故で心不全を起こし、その後、傷つき、一生背負うようにいわれた酸素ボンベを引きずりながら、羽を折られた鳥のようになって、辿り着いた、縁もゆかりもなかった奥九州。この奥深い地に移り住み、この夏、早18年目を迎えることができた。感動にあふれる毎日。山あいの村で、リアス式の浦々で海賊の話や平家の落人の話をちょっと昔の話のように聞きながら、楽しんで生きた。祖父のルーツがあると知った四国にも何度も取材旅をした。

神楽(五ヶ瀬町)

本当に素敵な日本人の故郷を、先人から守りつないできた土地の先人の方々に、いつも感謝の念が沸き上がってくる。そして、この奥深い日本「奥ニッポン」の魅力を誇りに感じながら、ひたむきに生き、神楽や農林漁業やお店を次世代に継いでいきたいと願う人々の素直で純粋な生き方に感銘され、「みちくさ」を綴り続けて来た。17年間、書き続けられたのは、読んで下さる愛読者の皆様と、活動を応援して下さる協賛主や広告主の方々のおかげである。そして、無料の誌面を買ってまでも応援して下さる「みちくさ倶楽部」の方々のおかげで「みちくさ」を何とか廃刊せずに頑張って来ることができた。本当に感謝の念が絶えない。

多くの大切な出逢いの連続で流れゆく充実した歳月は、まさに光陰矢の如しであった。しかし、よく考えてみると、結局、人生で一番長く住まわせていただいているのは、この地ということになる。とはいえ、この奥日本に流れる悠久の時の流れから見ると、私の過ごした17年間など、それこそ時が数回、瞬きしただけ。ほんの一瞬にしか過ぎない。この地に流れる時間は、ずっと昔から静かに流れ、ずっと遠くに続いている。

奥ニッポンでは、養老孟司氏がその著「自分の壁」の中で語られているように、昔は自分の壁がなかった。「自分たち」という観念で生きてきた。しかし昨今は、自己が強くなり「自分」「夫婦」「家庭」だけで生きるようになってしまったと、科学者である養老氏はたんたんと、しかし、はっきりと残念無念であると匂わせるように語っている。いつの間にか「自分の壁」ができてしまった。

掛け干しの風景(西米良村)

私はさらにそれに付け加えたい。日本人は、元来、時空を超えた真我で存在してきたのだと。空間だけでなく、壁は時間軸もカットしてしまっている。自分の壁ゆえに視野や思いは狭くなり、現世感のみが必然的に強くなり、孤独な存在になってしまった。元気なときは束縛がなく自由だと感じ、まだ良いのだが、一旦、病などで不幸せになると、本当に孤独だ。刹那的な気持ちになり、自らを絶ちたい誘惑さえ沸き起こる。現在という時間旅を自分だけで生きるのではなく、過去から未来に通じる悠久の時の流れの中で先人や未来人と一緒に「自分たち」として生きていくことで、魂が永遠に生き続けていく。土地に生きることは、時には自由が少なく面倒に思うこともあるかもしれないが、孤独はなく、人の生死もまた、時の流れそのものになって、その地の暮らしの中に溶け込んでゆく。死しても人は、暮らしの文化を織り成し、固有の地域価値を生み出し、魅力を未来につないでいくことになる。

「この石垣の間に咲いている柿の木は趣がありますね」と話すと、土地の人は、「じゃっとね。柿の実も立派で味がよかですよ。隣の家のキク婆が干柿名人やと」などと方言で(いまだに方言は使えない)。どこに行けばキク婆に会えるかと聞いてみると、50年も前にお亡くなりになっていると大笑いされた。この地に住む人にとって、百数十年前であれ、数百年前であれ、つい最近のことであり、人は亡くなっても人の心に生きており、その人の暮らしは今と連続していて身近に語られるのである。

本庄古墳群と日本書記

さて、宮崎県に町全体が古墳の町がある。宮崎市に隣接する国富町のことである。もともと「天領」であった、幕府直轄の地、クニトミ。ここには4世紀前半から6世紀にかけての古墳が市街地の中に点在し、街の暮らしの中にしっとりと溶け込み、町の変遷の中で、尊ばれ共存し、現在に残る。 たとえば本庄稲荷神社は、別名を剣柄稲荷神社ともいわれ、宮永家が82代にわたり宮司を務められている由緒ある古社である。それこそ「剣の柄古墳」の上に鎮座しており、創建は景行天皇の御代と謂われ、境内には各国に一社のみ祀ることができるという国造神社が合祀されている。

古い伝承も残っている。その昔、熊襲の長クマソタケルの宴席に女装し紛れ込みクマソタケルを見事に討ち取り、死ぬ間際に、汝にヤマトタケルという名を差し上げようといわれたという伝承である。クマソタケルを討ち取った時の剣が剣の塚古墳には葬られているという話である。あるいは神武天皇の兄イナヒの古墳という説もあるが、景行天皇の妃である御刀媛(みはかしひめ)の子で、日向国の祖といわれるトヨクニワケ(豊国別皇子)関連の古墳ではないかといわれている。剣柄稲荷神社のある本庄地区だけでも57基の古墳が集中しており、宮崎市の生目古墳群や西都原古墳群との関連もある。とにかく町中心地に古墳が共生している地は、全国を見渡しても、そうあるものではなく、とにかく貴重であり、国富町の方々が「フィールドミュージアム国富」構想に取り組まれている中心的な理由の一つである。

本庄古墳群(国富町)

本庄古墳群は、時代的にも4世紀半ば頃までには造られており、西都原古墳群の女狭穂塚や男狭穂塚よりも古い。日本書記によると、景行天皇は熊襲を平定するため高屋宮に6年間、暮らされた。その時、絶世の美人、御刀媛を妃にされ、その御子トヨクニワケが日向国造の始祖になったと書かれている。また、宮永家系図では5世紀には、トヨクニワケの皇子・久邇止美比古(クニトミヒコ)の系図が残り、日本書記には、その孫に当たるといわれる日向国の諸県君牛諸井の娘、髪長媛が仁徳天皇に見初められ妃となった話などが日本書記に記されている。また、西都原古墳群の女狭穂塚は、髪長媛のご陵墓、男狭穂塚は諸県君牛諸井が眠っているという説もある。少なくともこの当時、大和朝廷と交流する日向の大きな勢力があったということが窺える。

投谷八幡神社(鹿児島県曽於市)

今回、エコな旅で、鹿児島県曽於市にある投谷八幡宮の秋祭りに参加させていただいた。1300年以上続くと謂れる古式豊かな祭事であった。10本の矛と面をそれぞれ決められた集落ごとに守り継承されて1300年。集落でも地頭格の家の者のみが継承し参列し、御神体である矛と面を父王と母王の墓があるお旅所までお連れする。以前は歩きだったが、今では車で行われていた。そのときに参列した人から聞いた話で面白かったことがある。景行天皇の妃になった髪長媛が曽於国造のソヲタケの娘であるという説である。地域には地域の伝承が口伝されており、中には古文書や地名、御神事として継がれている。地域の方がそっと信じ、守ってきた貴重な文化を明日の自分たちにもつないでいきたい。

フィールドミュージアム構想

地域をフィールドミュージアムとして大切に守りながらもエコツーリズム(地域づくりと学びの旅)として光を当てていく取り組みを、今、国富町で取り組んでいる。ガイドボランティアを自主的に育成する町民たちの自主活動。地域の宝は、いたるところから出てくる。2~3月には、豊かなクニトミのフィールドを舞台とした学びの旅企画を考えている。(詳細はみちくさ2017年10・11月号6~7ページに掲載いたしております。)

「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長