春を待つ
竹林

人は旅人。

人生は旅そのものである。人の世というのは、不可思議なものである。振り返ると、いつも懐かしい。身を焦がすような失恋も、進路や事業での大失敗も、病の苦しさもまた乗り越えて振り返ってみると美しく、時にいとおしい。むしろ人生の儚さや空しさは、何をしてもうまくいかないときに訪れるのではなく、何も意識もせず、誰にも感謝せず、ただ漫然と生きているときにこそ感じるのではなかろうか。人生という流れに棹をさし、自分らしく舟を進めようとあらがうことが人間らしい生き方である。一方、何もしないで時流に流され、流行を追いかけ、無為に過ごすと、そこにはただ風のみが過ぎていく。結局、振り向けば自分の人生には何も残っていないという結果になるやもしれない。

京セラ創始者の稲盛氏は、人生の試練は失敗しているときばかりでないと語られる。すべてが上々、順風満帆なときこそが、天より与えられた試練であるとされ、世の慢心を戒めてくださる。生きるとは、どういうことなのか。天からいただいた試練を、苦しい仕事を天職と感じ、感謝しながら日々、前向きに素直に向き合いながら人生を全うしようと生きる人は、幸いである。自らを昨日よりも今日、今日よりも明日へと少しずつ高めながら生きることを死ぬ瞬間まで実践することができるからである。

人は、自らの知力や技能を高める目的だけに生きるのではない。それでは、あまりに空しすぎる。何も死後の世界に持っていけないからである。魂(真我)自身を極め高める生き方を学んでいかないとならない。昔の人間はそれができていたのだろう。曽祖父から祖父、父から息子へ。それぞれの背中を見ながら、先人の教えを肌身で感じながら、大地から自らの手で、天から自らの心で何かを生み出しながら生きてきた。一個の自分としてだけではなく、過去から未来へ続く魂として、地域に生きていた先人から子どもたちを含めた「自分たち」として生きてきた。きっと心が定まり安定して生きることができたであろう。流行に惑わされることもなく、真我の声を聞きながら、自らの人生に棹をさし、荒波を黙々と明朗に生きてこられたのであろう。自らの使命や理念にそって。現在は、自分で見聞きしたものよりも情報のみが氾濫し、唯物論的に人生の価値がモノやカネに固定化されている。

春を待つ人は、春をみつける。あらゆるところに春は来ている。 尾八重山の野草

今日、2月4日は東米良の有楽椿の里祭りに出かけていった。宮崎県の中山間盛り上げ隊の事務局として参加させていただいたのである。集合場所の眺望館には雪が残っていたが、集落の人たちが早くから集まっておられた。そこから尾八重の集落を抜け、ワラを干す棚田に歓声を上げ、約30分ほどで有楽椿の里に来た。

私の仕事は野点をお手伝いさせていただくことであった。西都市から来られた80歳を過ぎたお母さんたちがてきぱきと元気に野点をして下さった。そして、少女のような笑顔で、車窓からの風景について語っておられる。昨年みつけたミツマタの黄色の群生が美しかったが、今年はまだだったわと、しきりに残念がっておられる様子は、あたかも春の光のようであった。

「野点」をされる西都市の女性「野点」の風景
春を待つ人は、春をみつける。 人生の価値を探す人は、価値ある生き方をみつける。
「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長