学びの旅「エコツーリズム」

父から学んだ旅が、私のエコツーリズムの原点。

13歳から15歳までイタリアのローマに住んでいた。当時、国際線のパイロットであった父の転勤に伴ってのヨーロッパでの暮らし。思春期の私にとって多くの学びがあった。

長靴の形をしたイタリア半島は周囲が温暖な地中海に囲まれた、豊かな丘陵が広がる農業国。家族と地域性を大切にする気風があり、小さなことにこだわらない大らかさは、このイタリア生活で育まれた。イタリアにはレジョーネと呼ばれる州が20あり、それぞれに個性があり、方言も気風も異なり、特別自治州も多い。それぞれの州には小さな町があり、また、それぞれが独立している。教会がありワイナリーがある。それぞれの地域で、古代からの暮らしを代々受け継ぎながらも、地域から世界へという形で発展してきた。地域固有の文化がしっかりとしており、職業も多くは家族内で継承されてきた。

ギルド制で守られてきた職業は、革職人の子は誇りをもって革職人になり、ベニスではゴンドリア(ゴンドラを漕ぐ人)の子はゴンドリアになるのを夢見る。中でもフィレンツェがあるトスカーナ地方には世界のバッグメーカーの四分の一があり、中世から革をなめす技術が進んでいた歴史がある。ルネッサンス期になると、ミケランジェロやボッティチェッリなどの工房と共に革職人たちの工房が軒を連ねたという。現存するピネイダーやスケドーニなども百年の歳月を経て、世界に冠たるブランドになっている。

さて、私たち家族は、父が自然豊かな山岳地帯が好きだったおかげで、イタリア在住中は年に二度は、スイスに訪れた。休みになると、車で北イタリアの町々に泊りながら2週間かけてスイスやドイツやオーストリア、フランスの田舎町に出かけた。父が好きだったのは、マッターホルンの登山基地ツェルマットとユングフラウヨッホ登山基地であったインターラーケン。私も大好きになり、帰国後も国際医学学会の事務局の仕事でバーゼルを中心にエクスカージョンをセットさせていただいたり、頻繁に訪れる地になった。 飛行機乗りとして全世界を知っていた父にとって両町の何が魅力だったのか?

「栄子、ツェルマットはスゴイぞ。登山列車で入ると、そこから先は自動車など化石燃料の車は入れないのだよ。住民が空気を大事にしているからね。人間の都合や世の流れに逆らっても自動車を拒み、美しい自然と人が創ってきた環境や景色を大事にしているんだ」と教えてくれた。後で、大学で観光学を勉強したとき、父がしてくれた旅こそがエコツーリズムであったのだということを知った。まさに学びの旅であった。

大切なのは、「どんなマチにしたいか?」を決め、コンセプトにすること。

インターラーケンも二つの湖の周辺は散歩道になっていて、人がゆっくり歩けるように、自転車の乗り入れも禁止していた。ところどころに野鳥の看板が立っており、家族で鳥を探しながら歩いたのを覚えている。もう今から45年前のことである。

当時、マーケティングをして、市場が何を求めているのか調査をして、その結果、そのようなまちづくりをしたわけではない。自分たちの町だから、自分たちがどのような町に住みたいかを考えて住民たちが話し合い、何を大事にするかを決定した。そして創ったコンセプトを守りながら、ぶれずに町を運営したからこそ、しっかりと本物が残っているのだ。

もう一度いう。今、本物を希求する時代がやってきたから、マーケティングした結果、彼らは、コンセプトを決めた訳ではないのである。マーケットで生み出されたものではない、まさに「本物」なのである。賢くなったプレミアムFIT(知的な海外からの個人旅行者)を惹きつけるためには、にせものではダメである。本物でなければならない。

このようにマーケティングよりも大切なのは、どんな町を作りたいかをしっかりと決めることである。住民たちがそれぞれの町の宝をしっかりと決め、流行や世の流れに逆らってまでもコンセプトを打ち立て、それにそって、まちづくりを行っていくことこそが大切なのである。そして、そのことを来た人も受け入れた人も学べる交流の旅が、エコツアーであり、エコツーリズムの取り組みなのである。

旅人を拒絶するより、受け入れ学んでもらう。受け入れた人も旅人の感動から学べる「旅のカタチ」。

大学時代、上智大学外国語学部で国際関係学を専攻した。そこで後に国連難民高等弁務次官になられた緒方貞子先生からエコツーリズムの基本概念にもなる「草の根の交流」の大切さを学び、観光学では、エコツーリズムという「観光による学び」について勉強した。

19世紀からナショナルパークなどの豊かな自然環境を守るためには、人が訪れない方が良いという観光に反対する動きがあったが、20世紀も中盤に入ると、ガラパゴス島の議論をきっかけに、むしろ人を呼んで学ばせるというエコツーリズムの考え方が優勢になった。人を拒んでいても不当に入る人は入ってくるだろう。「拒む」のではなく、むしろ「育てる」。多くの人に訪れてもらい、学んでもらう方が「拒む」より良いという考え方である。

島で動植物の多様性を学ぶことにより、地元に戻ってから自分の地域の価値や特徴を見出し大切にすることになり、ある時は暮らし方自体までが変わるという「学びの旅」をエコツアーという形で行う。そして、エコツアー等で得た収入で、保全活動や教育、発信などに充てられる。

20世紀後半に入るまでは動植物の多様性だけを論じていた環境学者主体の考え方から少数民族や地域の文化保全という意味の文化人類学的な考えが加わった。インディアンやアボリジニのような少数民族の方々の暮らしだけでなく、すべての地域には固有の多様な暮らしがあり、貴重であるという考え方を皆が学ぶために、エコツアーが有効である。暮らしの価値観を守り、コミュニティ保全のためにも交流が大切であるという考え方である。

民宿焼畑(椎葉村)

体験観光ではない、イデオロギーとしてのエコツーリズムを提言。

こうしたエコツーリズムの考え方が私が大学にいた1970年の終わりから80年代初めに唱えられるようになり、これが昨今の日本のエコツーリズムの考え方にもつながっていく。1991年になり農水省の文書に初見したときにはエコツーリズムは「グリーンツーリズム」という言葉で紹介され、環境省ではエコツーリズムという言葉で訳されるようになった。

その後、観光と地域づくりに携わる人たちもこの考え方を取り入れ、次第に広く広がっていった。 元々は日本の暮らしの多様性もまた交流の素材としてたいへん貴重な観光素材であり、暮らしの中の交流を通して、本物の地域交流ができ、受け入れた人も学び、来た人も何かを学んで帰ることができ、地域のファンとなり、農村部と都市部の交流を通し、農村の関連人口も増えるという考え方であった。

しかし、残念ながらエコツーリズムを単なる「体験観光」と訳すと、本質の考え方が忘れられていく。マーケティングなどによる新しい観光素材として、本物志向の人を満足させる「コトのグルメ化」のような形で、手段でのみでエコツーリズムを捉えるようになった。これはたいへん異なるもので、危機感さえを覚えるときがある。

地域の暮らしを守るための手段としての「学びの旅」という考え方を持たずに暮らしに踏み込んでいくと、本物そのものが壊れてしまう危険性もあり、何のための交流かということになる。 しっかりと中間支援組織が手を組み合って、本質を常に学びながらネットワークを構築して暮らしの中でのプレミアムな交流企画を提案し受入していくことを推進していきたいものである。

国立公園満喫プロジェクトワーキングに参加して。「宮﨑茶房」茶畑にて(五ヶ瀬町)

今年度、環境省は「国立公園満喫プロジェクト」を掲げた。これは政府が昨年度「明日の日本を支える観光ビジョン」に基づき、国立公園の訪日外国人利用者数を2020年までに現在の約600万人から1,000万人にするという目標を達成するためのプロジェクトである。

全国には国立公園が34あるが、そのうち8国立公園を先行的に取り組みを推進する国立公園に選んでおり、九州にはそのうち二つ入っている。全国で一番利用者が多い国立公園でもある阿蘇くじゅう国立公園(92.6万人)と、全国で3番目に利用者が多い霧島錦江湾国立公園(12.9万人)の2か所である。

少し堅くなるが、環境省は国立公園を次のように定義している。「優れた自然の風景地を保護すると共に、その利用の増進を図ることにより、国民の保健、休養および教化に資するとともに、生物の多様性の確保に寄与することを目的に指定するもの」と。

打植祭の狂言「牛追い」風景(えびの市)

先般より環境省主催でワークショップも開催されるようになり、エコツーリズムカンパニーである「株式会社アイロード・プラス」代表として参加させていただいている。風景を楽しみながら、自然と共生してきた人間の暮らしや文化、地域性を楽しむことがエコツーリズムであると、環境省の方も語られており安心した。

「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長