橋本正恵さん復活「この人」橋本正恵さん

短くした髪が少年のようだが、よくみると、目の下にえくぼができ、笑顔は少女のようである。実際の歳のようには全く見えない。そう、妖精のような雰囲気の女性。外見が若く見えるということではない。生き生きとした内面が、年齢を超え、表面に現れているような女性である。 海縁のところに椅子を並べ、眩しい陽の光の中、熱心な昔話が始まった。話す内にますます輝きを増していく彼女の瞳と、表情豊かな口元に引き込まれそうだった。こんな可愛らしい女性を見たのは初めてである。てらいも、きどりものない自然な話し方。彼女が話すと、過去の一場面が突然、生き生きと浮かび上がってくるから、天性の語り部だとおもった。

「昔のイカダは竹で、できとったんよ。 でもな~雨が降ると足が滑りよるやろ?そこで、股んとこに大きな青じんたん をこしらえてしまってな。しばらくまともに歩けんかったんよ。それで 建材を揃えてもろうてな。ボルトで止めて、木のイカダを作ったンよ。最初は家を作るようにイカダこさえよるわと、皆にバカにされたけどな(笑)今じゃ、みんな、木、つこうとるわ!」

イカダ作業風景

当時、亭主が外に出たまま戻ってこず、女手ひとつで、会社をうったて、子どもを背たろうて頑張っていた、当時20歳であったであろう正恵さん。その頃から、発想と実行の人だったことが、このエピソードからも分かる。丸太や竹を使うと、舟の荷おろしなどのとき、滑車やコロなど使いにくかったが、板を使うと女手でも簡単に荷運びできるようになった。これまでにないものを創り出し、実行する。橋本正恵という人物を見ていると、思考にも心にも垣根がない。既成観念とか、男女の年齢の垣根とかが、まったくない。しかし、古いもの、歴史、ご先祖様、父ったん(とったん)など大好きで、むしろ深くこだわっている。(中略)将来は、とったんの夢を叶えること。ばあちゃんのような働き者になること。

これは、10年前、私が初めて会ったときの正恵さんの取材記事で、平成18年に「新みちくさ7号」の「この人」に掲載した文章である。その後、「丸二水産」の二階に格別のご好意で「風の人」の一人として、私の寝起きする場所まで設けていただいた。お礼をいうと、あっさりと、でもあったかい笑顔で、「いつでも泊まりいな。あけとくきい」と促して下さった。取材の拠点を提供していただき、今日の「みちくさ」が存続があった。

彼女の会社は蒲江浦の北部、西野浦の突端に近いところにあり、養殖イカダが桟橋にもなっていて、風の谷のナウシカのような孫娘さんがピョンピョンと遊んでいた。まあ姉(正恵さんのこと)の子どもの頃はこんなだったのだろうなと、思わず、頬が緩む。近くには、中塚のこうちゃん、洲本のハツ兄(ニイ)、ブリ団長の村松船長など現地芸能人のような人から、普通のおばちゃんたちまで、多彩な西野浦。また、お地蔵さんや水神さまの前で語り合う人々が、漁村の風景を創っている。また、元気な海女さんたちの大きな笑い声が、浦の営みの豊かさを伝えていた。水産会社の横には、民宿「まるに丸」もあったが、会社を立ち上げたばかりの私にとって、無料で用意していただいた水産会社の部屋は、ひいひいとしていた苦しい時期に(今もあまり変わらないが…笑)、たいへん助かった。愛する蒲江の魅力を伝えて欲しいと提供していただいた支援、正恵さんの愛は、今でも執筆や活動の継続の原動力になっている。

水産会社の二階の部屋は海に突き出ていて、夜は潮騒を聞きながら眠り、朝は海女(あま)さんたちの元気な声とコロを転がす音で目ざめ、夕は暮れていく海の表情が旅情をそそった。そして、何よりも楽しみは、居心地の良い小さな台所で過ごすマア姉とのおしゃべりの時間。さっと手際よく料理してくれた漁村のおかず。今でも深い恩義と共に、姉のように慕う気持ちを感じずにはいられない。

「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長