コラム「地域の宝って何?」

地域の宝とは、暮らしそのものである。地域に残る、日々の衣食住に関わる様々な固有のモノやコトがたくさん詰まった暮らしそのものこそが地域の宝である。

最近、宮崎公立大学の民俗学の教授が提唱されている「在来野菜」という言葉が好きになった。「伝統野菜」とどう違うのか? どちらもその土地固有の野菜には違いないだろうが、「在来野菜」は、その土地で変化し続け固有の進化をしている野菜を指しており、常に土地の日常の暮らしと共にある野菜である。

「伝統野菜」とは土地固有の野菜をさらに系統立て植物学レベルまで高め、評価基準を一定にして種の価値を高めたものである。そのためには種の保存に努め、決して他品種とは交配させてはならないという人もおり、純粋種で増やしていくのが基本。高値で商うために流通販路でその価値観に傷がつかないためにも固有の品種や系統を守っていかなければならず、DNA的にも一定でなければならない。 反面、地域から外に出すことも可能。むしろ系統を守るためには試験管や温室で栽培されたものの方が系統を維持し、種を守っていきやすいかもしれない。

「焼畑風景」椎葉村

反して地域で何気なく食されてきた「在来野菜」は、もともと普段使うので常に変化することが当たり前とされてきた。人間の暮らしに寄り添い、自給自足の暮らしの中で食するために育てられてきた。常に変化する地域の風土や土壌、空気、地形や気候、農林業のスタイルなど固有の暮らしの中で自然交配し、変化を繰り返し残ってきた野菜が、在来野菜である。DNA的にも多様な可能性があり、形や色、形態も千差万別で、常に変化があり、その出荷時期も一定ではない。だから流通にも乗りにくい。集約的な農業のなかでは常に淘汰されてきた野菜でもあった。種の保全が目的で育てられたものではなく、地域固有の暮らしの中で「変化」を繰り返し、現在の希少種がたまたま誕生したもので、地域と離れて存在する在来野菜というものは存在しないのである。

暮らし丸ごと地域の宝

西米良村村所神楽

実はこれは野菜だけの話ではない。 「地域固有の暮らしにある日常使いのモノ(民具等)やコト(神楽等)」と「民藝品の美術品化や民俗芸能の芸術化」との間にもまた、在来野菜と伝統野菜と同じような隔たりを感じる。 地域固有の暮らしに丸ごと光を当て、残すこと(エコツーリズム)と、暮らしから切り離したモノやコトのみに光を当てては特別視することは違う。地域と切り離せば、暮らしの中のモノやコトを守る事は難しい。大正15年に興った民藝運動では、手仕事の日用品の中に「用の美」 を見出した柳宗悦たちにより、美しい民具を美術品の域にまでその価値を高めた。日常の暮らしで使われてきたモノたちが、ある一定の基準や条件の元では美術工芸品として価値が担保された。それらは暮らしの中から抜き出され、賞賛されたが、一定の評価基準が設けられ固定化されたことで、暮らしの中には高級すぎて戻れず、暮らしから乖離した場所で評価され ることになった。

昨今も同じである。神楽の舞や雅楽など芸能文化部分のみの評価が高まり、価値を得、公演に呼ばれたりしているが、えてして地域や暮らしから切り離された形で光が当たると、モノもコトも本来の暮らしとは乖離していき、下手をすると本来のモノは消滅する。大切なのは、民具を使用したり、舞を奉納してきた地域の暮らしの持続性であり、暮らしそのものの価値を残すことに努めいかぎり、いくらモノやコトに付加価値がついても暮らしの中の価値ではない。用具も神楽も地域固有の野菜も暮らしと切り離されると、ただの美術品や芸術品、伝統野菜にしかなり得ず、変化を失ったものは消滅してしまう。そこには進歩という名の変化がないから、もはや暮らしに息づいていないからである。

暮らしは生きている

カシの実こんにゃくの名人「サエさん」。

実は暮らしは生きており、変化の中に存在する。地域が閉ざされれば閉ざされるほど他と異なる変化をするから貴重なのである。地域の人々の暮らしのなかの道具や孫のために爺ちゃんが作った民具は、たとえ手作りで不恰好なものであっても、また伝統にない材質で作られたものであっても、地域の暮らしの多様性と共に残ってきたものである限り、貴重である。それぞれが異なるから良いのである。そう考えると山の宝、地域の宝はモノやコトではない。暮らし自体が宝。そのことを今一度、私たちは心に留めておく必要がある。

今回、誌面で紹介する地域素材と連携した新しい食商品の提案は、暮らしの変化に合わせて使いやすいものになっている。ぜひ地域に入り、地域と共にゆっくりと楽しんでほしい。

「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長