季節を感じる旅

霧島を旅した思い出。

あれは、25歳。4月もまだ初旬の頃であった。当時、ある医学出版社で国際医学学会のコーディネーターを勤めていた私は、ちょっと疲れた体を癒すために、単身、東京から南九州へ一人旅をした。鹿児島空港を起点に霧島市のホテルに2泊、人吉経由で熊本県八代市の日奈久に1泊し、家族と鹿児島で合流し、東京へ帰る旅であった。今から思うと、「みちくさ」の原点のような旅であった。

たしか林田バスだったと思う。ホテルから大浪池登山口で降り、池を目指す。まだ、新緑には早いが、冬ではない。むしろ新緑より良かった。冬を耐え抜いた森の喜び、裸木たちの枝幹の力強い生命力が描く線の美しさを感じながらトレッキングを楽しんだ。

えびの高原の春は遅い。山開き前でもあり、他に歩く人もいない。春が今まさに始まったばかりの「気」に満ちており、一人旅ゆえの気兼ねなさから、足かろやかに駆け上がったり、立ち止まったりと、トレッキングを楽しんだ。涼しいのだが、登っていくうちに春靄がしっとりと肌にまとわりつく感覚がして、とても心地よかったことを覚えている。小半時ほど歩くと、大浪池に到着。波ひとつ立っていない神秘的な湖面に吸い込まれそうな感動で声も出なかった。火口湖特有の静けさが私を飲み込んでいくようであった。とにかく神秘的で、すっかり魅了され、心ふるわせたのを覚えている。

エビ色のススキに彩られる、えびの高原。

子どもの頃、ヨーロッパに暮らし、当時、勤めていた国際学会では、スイスやカナダの山々を散策したことも多かったが、この大浪池での体験は、異質であった。偉大な地球を感じた。いや地球に生きている自分という存在を感じたのかもしれない。畏怖の気持ちに襲われると同時に、原始時代、人はどれほどに、この地に神を感じただろうかと、神話とは、このような体験から生まれてくるのだろうと、夢想した。まったく南九州と神話の関係など、一片たりとも知らなかった私に、天啓のように神々が魔法をふるった。

数分間、立ち止まった後、畏怖の念で怖くなった私は、山を駆け下り始める。降り始めて数分後、突然、春の深い霧が辺りを覆い始め、道がまったく見えなくなった。真っ白の世界。足元数十センチしか見えない。途中、鹿と思われる足跡をみつけ、その後をついていった。いつの間にか道に迷っていた。そして、もうだめかなと思った瞬間、突然、民家の垣根のようなものがあり、えびの高原キャンプ村に出てきた。

旅は感性を磨く。

今年の夏は、特に暑かった。しかし、9月の声を聞いたとたん、いつの間にか秋がやってきているのに気がついた。昨日、久しぶりに大学のキャンパスの中を、秋風を感じながら歩いた。所も時も異なるが、遠き学生時代の自分が、確かにまだいる、いや、当時そのままの自分がいることに気がつく。人というのは、年を経ても変わらない。外見は驚くほどの勢いで変わっていくかもしれないが、内なる心はそう変わらないものだ。輪廻転生。生まれ変わって記憶がなくなっても私は、ずっと変わらないまま、次の肉体と共にいるのだろうか。自己を超える「存在」を強く感じながら、時折、落ち込んでいく精神世界へと入り込んでいった。いつの間に青空を見上げながら歩いていたらしく、「社長、ここですよ」とベンチから呼びかけるスタッフの声で、我に返った。季節を肌で感じるためには、何が必要か。五感だけでは難しい。あるいは季節を旅する中で、人は五感だけでなく、神秘や気配、気を感じる第六感が育つ。かわいい子には、旅をさせろ。旅は、感性を研ぎ澄まさせる。

目に見える世界、見えない世界。

4歳の頃の私は、夜になると突然、真っ暗な宇宙にいる自分を感じ、怖くなった。真っ暗な空間に惑星が浮んでおり、そして、自分がいた。宇宙の存在などまったく知らなかった私が、「宇宙」を感じていた。「私って、誰?なぜ、ここにいるのか」宇宙に浮かぶ自己の存在を感じ、宇宙に吸い込まれそうになりながら、無性に怖くなり、眠れなくなった。横で寝ていた父親の布団にもぐり込み、冷たくなった足を父の足の間に挟んで暖めてもらっては、ほっとしたことを、父のあったかなぬくもりと頭を撫でてくれる力強い手のひらの感覚一緒に、記憶の1ページとして大切に保存している。心というのは、実に神秘的である。

山あいに幽玄な空気漂う、高千穂町。

大宇宙の母とへその緒で繋がる。

最近、京セラの創業者、稲盛和夫先生を塾長とする「盛和塾」に入塾させていただいた。塾の立ち上げ時期から毎年4回発行されてきた「機関誌」を、塾生たちと毎週1号ずつ読んでいく「機関誌マラソン」。今週の「機関誌」では、ガイアシンフォニーの龍村仁監督と塾長が対談する場面が書かれていた。その中で哲学者の井筒俊彦さんの「瞑想をして精妙な意識状態になると、存在としかいいようのない状態になる」という言葉を引用され、自分自身が存在していることは実感すると、他のものも同じように存在していることが分かるのだと塾長は語られていた。すべてが「存在」で出来上がっている。

「たまたま一つの生をもって、この地球上に生まれてきた。そのなかで1回しかない、壮大な人生という劇を演じていて、稲盛和夫という役を仰せつかったのだ。会社の守衛さんも、工場でお掃除をしているおばさんも、役割としてそうあるわけで、存在としては皆、同じだ」と話されていた。

このことは、4歳の頃、幼稚園に上がる前の私が感じていた「存在の宇宙」と同じである。ダライ・ラマ法王は語られた。「心にはいろんな層があり、そのいちばん底の心は輪廻転生するんですよ」と。その意味が、私の心にもストンと落ちてきた。

龍村氏が語る。大宇宙の母、へその緒で森羅万象は皆、つながっており、元々は同じものが、この世の中で、仮の姿として違う形で存在していると。この考え方は、ずっと私が感じてきた宇宙である。ただ、この宇宙は壮大すぎて、感じると、実に孤独である。父の温かい存在に寄り添わずには感じるのが怖かった世界であった。

感性を育てる。

感性を育てるものは何か。それは旅であり、伝える力から生まれる。「みちくさ」のテーマ、地域の固有の暮らしの中を旅をするのと同じように、ぜひ暮らしの中で旅をするを実践して欲しい。新しいものを見る力、息吹を感じる感性、「もの」や「歌」、アート、そして写真で伝える力は、暮らしの中で旅する気持ちから生まれる。暮らしの中で伝える力をはぐくむことは、きっと感性を育て、地域をつなぐ「愛」となる。

表紙の「フォトジェニックな旅」。これは、携帯やスマートフォン、タブレットを駆使して、写真をフェイスブックやインスタグラムなどで伝え広げる旅のことである。アートを暮らしに織り込むことで、人の思いや芸術性を刺激する。

夏から秋へ。季節の移り変わりを感じる心と、人に伝えたいという心を結ぶ「みちくさ」になれるよう、101号目を迎えた本号を皆様にささげる。どんな旅を誰と楽しみ、どこで伝えていくのか。ずっと心の奥ひだに忍ばせ、人生観が変わる旅でもいい。季節を感じる旅は、人の生き方も変える。
「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長