文化薫り立つ「コンパクトシティ高鍋町」
日向国高鍋藩7代藩主「秋月種茂公」明倫堂跡
明倫堂跡
日向国高鍋藩7代藩主「秋月種茂公」が安永7年に設立。
全国の明倫堂の中でも藩士のみならず一般庶民も入学させたことが特徴。

宮崎県高鍋町は宮崎市の北に位置する、人口2万人ほどのコンパクトシティである。江戸藩政時代には、高鍋藩3万石弱の小さな城下町で、初代の秋月種長公に始まり、最後の藩主・種殷(たねとみ)公まで10代に亘り高鍋を統治してきた。

このように謳われた学問の地、高鍋の礎を築いたのは、第7代秋月種茂公であった。彼は藩校「明倫堂」を創設し、身分を問わず門戸を開いて人材育成に努め、高鍋藩の財政を再建し、藩を繁栄させた。そして、種茂の実弟である秋月直松もまた、名君の誉れ高い。直松とは上杉鷹山公のことで、破綻寸前の米沢藩に養子に入り、藩の財政を建て直した名君として名高い。「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」という歌も遺した鷹山は、米沢藩中興の祖といわれている。

高鍋と西南戦争の話を語りたい。高鍋は戦場となった。また、高鍋からは「高鍋隊」が、また高鍋藩の飛び地であった串間方面で「福島隊」が組織され、薩軍に合流し九州を舞台に政府軍と戦った。当時、高鍋では何か重要な問題が生じると、士族たちが旧高鍋城内(現・舞鶴公園)の千歳亭に集まり、衆議決定をする方法が取られていたが、西南戦争のときも800人の士族たちが集まり、喧々諤々と薩軍に付くか否かが討議され、高鍋隊が結成されるに至った。

高鍋城は、別名を舞鶴城とも呼ばれている。城跡は公園として整備され、春先には満開の桜が楽しめ多くの人で賑わう。
高鍋藩秋月氏の家老職を勤めた黒水家の家に建つ籾蔵は、かつて味噌などをつくり貯蔵するのに使用した蔵で、町の貴重な文化遺産。

実はかなり議論は紛糾した。というのも薩軍加担に反対の者も多く居たためであり、その代表であった高鍋藩家老の秋月種節以下9名は、薩軍に捕縛され「旧藩の籾蔵」を牢獄として投獄された。今でもその籾蔵は現存し、旧家老屋敷跡である「黒水家住宅」の敷地内に移設され、訪れることができる。

近代教育制度の生みの親「秋月種樹(あきづき たねたつ)1833~1904」

秋月家第11代目当主。日向国高鍋藩藩主の秋月種任の三男として生まれる。幼き頃より安井息軒や塩谷宕陰らに儒学や漢学を学び、小笠原明山(唐津藩)・本多静山(駿河田中藩)と並び、学問界の三公子と称された。そして文久2(1862)年、種樹は幕府の学問所奉行に任命され、翌年には若年寄格になり、第14代将軍の徳川家茂の侍読(書物の講義役)も勤めた。外様大名の一子としては前代未聞の出世であった。それほど教育の改そうは幕政の急務であった。実は代々、昌平黌(しょうへいこう)を取り仕切っていたのは林家であったが、種樹は、昌平黌教授にかつての恩師である安井息軒・塩谷宕陰、芳野金陵などを招致し、教育改革に着手した。

慶応3(1867)年、若年寄を任じられるが、長州征伐に失敗しており威信を失った幕府の命を聞かず、病気と称して拝命にも出仕にも応じなかった。幕府側は医師を遣わすまで言い出したが、高鍋藩士らは薩摩藩と謀り、品川湊に停泊中であった薩摩の翔鳳丸に種樹を乗せて脱出させた。その際、幕府の戦艦の砲撃も受けたが無事に兵庫まで逃げ切ることができた。その後、大政奉還が成り、江戸城に上がり、若年寄の職を正式に辞することができた。

維新後は明治政府に出仕し、明治天皇の侍読になって学問を教えた。さらに公議所議長を務め、版籍奉還、廃藩置県などの維新の大業成就を推進し、代議政体の礎を築いた。明治2年には、大学大監を命じられ、翌年には大学校・小学校規則を発布し、明治の新教育の要務に当たり、近代教育制度の生みの親とも称された。 その後、左院少議官、元老院議官などを歴任した。明治15年、高鍋に戻り、約10年間、千歳(せんざい)亭に暮らす。風月を愛し、詩歌に秀で、書家として有名であった。明治27年、貴族院議員になったが、明治37年に病のため没した。著書に『西郷南州手抄言志録』がある。(詳細は「みちくさ」2018年1月号23ページに掲載)

エピソード「秋月種樹と西郷隆盛の語録」

時は、西郷が没して12年後の明治22年、明治天皇は大日本帝国憲法を発布し、この時、国事犯に対して大赦令が発動され、ようやく西郷の賊名が解かれた。西郷は、心中から流罪、無欠開城の功績から下野、そして西南戦争へと多くの苦難に見舞われながらも上の者にも若い者にも、多くの人から慕われ尊敬された。いったい、その「底知れない魅力」の源はどこから来ているのか?西郷の教えがよく分かる『西郷南州手抄言志録』という語録集がある。西郷は34歳の時に、島津久光の命に逆らい、徳之島と沖永良部島に流されるが、その際、多くの本を愛読した。本の中でも美濃藩出身の儒学者・佐藤一斎が著した1133条からなる『言志四録』という語録集を暗誦できるまで繰り返し熟読したという。そして、その中から自らの心に響く101篇を選び、西郷が纏めたものが『南州手抄言志録』と呼ばれた。西郷が晩年に設立した私学校で教科書として使用するためのものだったともいわれている。

西南戦争後、西郷があれほど愛誦していた手抄本は、しばらくは忘れられていたが、西郷の叔父である篠原国幹の元にあるのをみつけた秋月種樹公が西郷の学識に感銘を受け、西郷の手抄本を借り出し、明治21年、山県有朋に題字を揮毫依頼し、勝海舟が南州詠詩を冒頭に付し、自らが偶評を加えて出版社から刊行した。当時、秋月種樹は明治天皇に学問を教える侍講(じこう)を務めていたことから、もともと西郷の人柄をこよなく気に入られていた天皇に書物を献上した。その時、天皇は繰り返し読まれ、「朕は再び西郷を得たぞ」と歓喜されたという。西郷と明治天皇の関係がそれほど信義篤いものであったということが窺えるエピソードになっている。

「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長