スリランカの野球チームを迎えて

8月15日未明、台風が宮崎県に上陸し、九州を駆け抜けていった。危ぶまれていた到着。スリランカのアンダー15歳の世界大会に参加する野球チームが無事、福岡空港に降り立つことができ、夕刻、えびの市に入った。

「スリランカ×日本」カレーの食べ比べ

インター横にある弊社が関わる「道の駅えびの」の敷地内にあり、交流拠点であるビジターセンター「アウトドアステーションえびの」での国際交流会。スリランカ人の店長スジーワのコーディネートによる国際交流試合前のイベント。日本のカレーライスとスリランカのカレーを食べて、喜んでくれた生徒たち。もちろん、どちらのカレーも米や野菜などの食材はえびの産か西諸県産。「オーチャンズ」のお二人による日本の歌。気持ちが高揚し、スリランカの歌も披露され、それに合わせて共に踊った。

スリランカの野球チームの皆さんと記念撮影

スリランカ野球チームの引率代表監督は、ウナンタナンさん(31歳)。生まれてはじめての訪日である。引率する純粋無垢な子どもたちへの愛を宿した輝く瞳、スポーツを通した国際交流に寄せる熱い思いを、歌やお話を通して伝えて下さった。私は8月15日にこの国際交流会をすることができたことのご縁と、来ていただいたことへの御礼、そして、戦後、日本の分割統治を救ってくれたことへの感謝を語らせていただいた。

今から73年前の今日、1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送により事実上戦争が終結した。1952年に講和条約が締結されるまでの7年間、日本は連合国の徹底的な統治下にあり、日本に対する厳しい賠償と制裁措置が連合国により論じられていた。日本列島を北海道、本州、九州、四国の4つに分割し、米、英、露、支(中国)で分割統治する計画が議論され、連合国同士の中で多くの駆け引きが行われていた。そのような情勢のなか、分断統治の危機を救ってくれた人がいた。彼こそがスリランカ代表のジャヤワルデネ氏であった。

時は、サンフランシスコ講和条約締結の前年1951年、連合国家51ヶ国が集まるサンフランシスコで開催された講和会議の席上において、スリランカ代表のジャヤワルデネ氏は、「日本は自由でなければならない」と演説した。太平洋戦争で日本が掲げていた「アジア共栄のスローガン」はアジア隷従人民にとって、高い尊敬を感じていたこと。

また、仏陀のメッセージ、すなわち「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ、消え去るものである」という言葉を信じたい。そして、日本を自由にし、日本の回復にいかなる制限も課さず、日本が外部から受ける侵略に、また内部よりの破壊に対して、自らの軍事的防衛力を組織できるようにし、また日本経済に害を及ぼすような、いかなる賠償も課さないことを保証して欲しいという内容のスピーチであった。

この演説はすべての参加国に感動を与え、連合国の空気を一変させた。そして、翌年のサンフランシスコ講和条約に至った。その後、大統領は何度も日本を訪れ、日本とスリランカの国交は確固たるものとなった。1996年、大統領は90歳の死去に際し、献眼、角膜提供をされた。「右目はスリランカ人へ。左目は日本人に」という遺言の通り、左目は長野県の女性に移植された。

日本とスリランカの球児たち

こんな話をキラキラとした瞳で一生懸命に聴いてくれた14歳以下の球児たち。日本とスリランカの友好の和をスポーツを通した交流で消えさせることなく、次世代に引き継いでいってもらいたいものである。

「福永栄子」署名
  • 愛で人と人、地域と地域を結ぶ(株)アイロード代表
  • 地域交流誌「みちくさ」編集長